F. Murray Abrahamは、その後あまり活躍してませんな...

よく「『誰が書いたか』で判断するのではなく『何が書かれているか』で判断すべきだ」みたいなことが言われます。つまり、作者ではなく、内容で判断せよ、ということです。これは明らかに正論です。否定のしようも無い正論です。正論過ぎて、青臭い書生論の正論です。つまりは、正しいけれども糞の役にも立たない。むしろ邪魔なだけの正論です。
「誰が書いているか」で判断するのではなく「何が書かれているか」 - くるさりんど

ネットで「Mozartなんて大した事ない」なんて言ってる奴がいたので、対位法などの音楽理論と歴史的位置付け、更には当時の社会情勢にまで言及して、完膚なきまで徹底的にこき下ろしてやり、「もう二度とネットなんかやらない」などと泣きながら退散するのを見送った翌日、会社の部長が「Mozartとか分からん。やっぱり演歌だな」などと仰るので、「でへへ。そうでやんすね。classicなんてインテリ気取りの嫌味な奴が聞くもんでゲスよ」と調子を合わせてカラオケに付きあってあげましたがそれが何かって話?
まぁこの程度の政治力は誰でも発揮するものであって、ネットとリアルの違いなんてない。どっちもリアルでしょうw 確かに、掲示板などで全く見知らぬ奴ばかりが集まった場合には内容ONLYで勝負を付けるような機会も増えるでしょうが、定例化すると発言力の強い常連さんなんかが現れてきて、これまたそいつに迎合するような輩も出てくるかも知れない。ネットの方が人間関係が薄い分だけ内容勝負で行けるチャンスは多いけど、どっかの知らない奴には気軽に反論できたとしても、相手が例えばSir Tim Berners-Leeだったら、ちょいと躊躇しますわな。「Amadeus」でも、彼のイカレたキャラが邪魔してZaltzburgから追い出されるわ宮廷での出世も妨害されるわで、彼の音楽性を理解していたのはSalieriだけでしたが、そのSalieriだって、仮にMozartが方性品行の人格者だったら、もう少し態度が変わっていたかもw
結局、自分の立ち位置を確認するのは普通のことであって、「誰が書いているか」と「何が書かれているか」のどちらを重要視して振舞うかは意識せずにみんなやってることでしょう。普段の人間関係を気にしなくともよいネットでは、その解放感から何が書かれているか」なんて言い易くなるだけのことであって、よくよく考えてみるといつもと同じ事をしていたりする。その意味で「書かれた内容が問われるのは、当たり前である分、「何が書かれているか」を力を込めて主張する必要もないように思えます。」に同意。
ところで、「これはノーベル文学賞作家の川端康成が大絶賛した美文であるわけですが、作者から切り離せば、食べ物のお礼と関係者の人名の列挙だけで、これほど多くの人の心に響くものはないはずです。」の「これほど」は、「それほど」のタイプミスでは?

[ 追記 ]
あ、文全体で見れば必ずしもおかしくはないか。でもやっぱり「それほど多くの人の心に響くものでもないはずです。」としたほうが収まりが良い。