小飼弾の読み方(試し摺り)

みんな既に気が付いていることだが、小飼弾の文体の特徴的な点は、トピックをオリジナルからずらしてしまうところにある。それが斬新な視点を提供することもあれば、なんだか微妙に脱線したままで終わることもある。彼は単に取り上げた主題の是非を問うだけではなく、常にそれをもっと高次元へ昇華させようとする。

Rauru Blog ? Blog Archive ? 性風俗産業が無くなったら何が起きるか

性風俗産業には、もちろん性欲を解消させるという役割もあるが、実際にはそれ以上に「性欲をかきたてる」という面も大きい。

しかしそれは芸術も同様だ。既存の芸術の存在はさらなる芸術への欲求をかき立てる。そして性欲は芸術と対立する概念ではなく、そのどちらも渾然一体となってかきたてる作品だって少なくない。多少下品な言い方をすれば、美術館所蔵作品でヌイたって構わないし、逆に「裏ビデオ」を学芸的に蒐集するのも構わない。作品をどう使うかは、使用者責任であるべきだ。

元々のエントリが性風俗に関する内容であることから、歌舞伎町のネオン風景とかキャバクラのネーチャンを頭に思い浮かべているところへ、いきなり「芸術」なんぞをぶつけてくるという芸風はなかなか常人に真似が出来るものではない。芸術家がお互いに刺激しあうであろうことは素人にも容易に想像がつくことなのでつい納得してしまうが、そうこうしているうちにも話はどんどん展開して行き、最後には「使用者責任であるべきだ」なんて締め括られると、あれ、一体何の話をしていたんだっけか、とはぐらかされたような気分になってしまう。
何故なら、引用されている文章の主張である「性風俗産業には性欲をかきたてる面も大きい」に対して、小飼弾は直接的には肯定も否定もしていないからだ。彼は芸術の分野だって同じだよ〜ん、って言っただけだ。
しかし、「作品をどう使うかは、使用者責任であるべき」という、このパラグラフの結論が、エントリのもっと前の方に書かれている「何が猥褻で何がそうでないかを決めるのは司法ということになっていたからだ。」とか「なぜ、日本のエロ業界各位は、この状況を放置してきたのか。」とか「何がエロで何が芸術かを裁判所ごときに決めてほしくないだけだ。」という個所に連結するものだということに気付けば納得がいく。要するに、ここで言われている「作品」とはエロを指し示しており、その判断を司法から取り戻せ(=使用者責任)と言っているのだ。

あるトピックに対して、一見まったく関係のないような別のトピックを持ち出して話をつなげてしまうことが出来るのは、自分の中に引出しを多く持っているからで、流石はAlpha-Bloggerと賞される所以だが、学生時代に国語の成績が悪かった人の中には、いったい何を話しているのすらよく分からないこともあるだろう。彼の文章が悪文なのか高度のレトリックに属するものなのかを判断する専門的能力はオレにはないが、「あなたはどう思われるだろうか」なんていう過剰表現がコイツナニサマ?感を「かきたてて」いるのは損だと思う。

文章を読める人には当たり前のコトを随分と高尚ぶって書いてしまった気がするが、気が向いたらまたやる(かも知れない)。